死に際をスタートラインに
しにたい。
軽率に!
しぬ!しにたい!あるいは、命令形。
簡単に使える言葉になってしまっていて、わたしは非常に残念だが、わたしも ときどき、いや頻繁に しにたい!と文字に起こしたくなるときがある。
じゃあ、どうやって死のうか。
とびおり?どくもり?くびしめ?りすか?
それとも、山奥に出かけて遭難してトウシでもしようか。ホームに降りてしまおうか。
ここまで読んであなたは何を想像したでしょうか。
満員電車、通勤ラッシュ、人身事故
どんな気持ちで飛び出したのか、本当に事故なのか真相はわからなくても、迷惑をかけるシニカタをするんじゃないと、憤りを覚えた経験ありませんか。
その憤りを否定したいわけではありません。
ヒト1人がなくなるだけで、多くの人に迷惑がかかります。別の言い方をするなら、何十億人と存在するうちのヒト1人がこの世からいなくなるだけで、誰かに何かしらが届くのです。
何かしらが。
迷惑かもしれないし、悲しみかもしれないし、憎しみかもしれないし、喜びかもしれないし。
ヒト1人が生きている間は感じることができなかった、他者との関わりを息をしなくなってから気づくのってコスパ悪いと思いません?
わたしはこの命を誰のためでもなく、自分のために使いたい。しぬことを選んだなら、それは自分のための終わり方。しかし、しぬことで、誰かに迷惑をかけるなら、私が生きた証を残すことができることなら、綺麗な歴史として残したくありませんか。わたしは、そう思います。
まず1つ。やり残したことを書き出す。
ふたつ。黒歴史の処分。
みっつ。交わした契約を全て解約する。
以上。
まずひとつ目をするに当たって、自分の人生を精算した時に、あまりにも何も成し遂げていないことに頭を抱えるに違いありません。
そして、やりたいことの多さ!!!
あなたの代わりはいないのよ、と言われても、わたしの代わりに掃除等をしなくてはならない人がいるのです。その方に迷惑をかけるわけにはいかない。
どんなに恥ずかしいことがあろうと、恥ずかしい自分をそのままにして息をしなくなることの方がよっぽど恥ずかしい。
恥ずかしい自分を恥ずかしくない状態にしてから、息をしなくなりなさい。と。
わたしが申しております。はい…。
しぬことを考えた時、わたしは見栄張りなのでちゃんとした状態で、後世に名を残すくらいの何かをやり遂げた世紀の大将軍並みのわたしが、夢小説や妄想書きをそのままにしてしぬとかプレミアつくかもわからんけどさ!恥ずかしくない?と思う。
わたしの黒歴史に価値があるのはうれしいけど、その価値が利用されるのってとてもむかつく!わたしの証はわたしがすべて喰らい尽くす!!!
まあ、大抵の場合 しにたい!っていうのは、本当にしにたいんじゃなくて、その現状を抜け出したいという比喩表現なんですよ。
素直じゃないね現代人。かまってちゃんもいい加減にしろ。
死に際を考えた時こそ、起死回生で
第nの人生のスタートラインに立てる説を提唱します。
おねむりん。