バス、電車、ときどき 徒歩

バスを見送り続けて、何時間が経っただろうか。

運転免許を持っていないわたしの移動手段は

バス、電車 ときどき自転車

徒歩でとほほ〜。

 

電車やバスは乗っちゃえば 着くので、乗っちゃえばこっちのもんなんです。

自転車と徒歩は、歩き始めちゃえばこっちのもんなんです。でも、いつでも 自分の意思で止められてしまうのが、後者のメリットデメリット。

バスがない時は、最寄駅から自宅まで1時間かけて歩くこともよくありました。それは、少しでも進んでいたいからというポエミーな理由でもありました。

少しでも進んでいたい。けど、進むには「何も考えない」必要があるんです。

何かかんがえていたら、足は止まってしまうんです。感情>理屈のバランスですが、何も考えていなかったら、もしくは自信を持っていたら、ゴールにたどり着けるのです。右足出して、左足出したら、次は右足出してって考えてたら、すたすた歩けないですよね。歩きたくないって、思ったら足止まりますよね。よく、配信でも言うようになったんですけど、この経験から、「ああ、人って考えているから止まるんだ。難しいことをもやもや考えていなければ、クリアな状態ならすたすた前に進むことができるんだ」って、思ったんですよね。もちろん、前に進んでいる人が何にも考えてない空っぽ野郎だとかそういいたいわけではありません。

 

自転車や徒歩の例はかなりわかりやすいなと思っています。でも、バスや電車は 乗っちゃえばこっちのもんってことなので、乗らなきゃ意味がないんです。

乗れないんです。気分が乗らないと。

それは自転車や徒歩と同じ理屈で。

スタートラインの意思が顕著なんです。

 

これ、たまに来る波なんですけど、乗れないんですよね。乗らないというのが正しいんですけど。何も考えてなかったら、流れ作業のように、通勤通学ルートを進んでゴールに辿り着く。いつもなら、できるのに急にできなくなる時期が来る。もしくは、いつもはなんとか無理矢理乗れているけど、流石に限界っていうことなのか。そんなに嫌なら、やめちまえ。と思いますが、やめられない。やめない。

 

そんなこんなで、バスを見送り続けて1時間。

バスじゃなくても、機会を見送り続けているなら、きっと、その機会に対して、自分の技量とシステムへの嫌悪感、疑念、がぐるぐると脳内を巡って、OKを出せない状態なんじゃないかなと思います。

 

定期的にとはいえ、最後にいつきたのかは覚えていないくらいに記憶力はありませんが、デジャブという感じで、ここ数年 よく私に会いにきてくれる現象です。みんなも、きっとこう言う経験あるはずです。

 

さすがに、1時間もここにいると、掃除の人に心配されそうなので場所を変えたいな。

お腹は空いているけれど、何も食べたくないし、誰にも会いたくないし、何をしたら良いのか、どこに行けば良いのかもわからない。

 

わがまま発動してしまった。子どもすぎる。情けない。と思いつつ、無理なんだもん。と頭を撫でかける。行く行かないは、自由だけど(?)こんな罪悪感に苛まれるくらいなら、何も考えずに行って帰って来れば良いのにと思う。納得がいかない、拒否の感情は実に人間らしい、というか動物的?な感じがします。だって、本能的に自分を守ろうとしているってことなのかなって。人間は、わりと我慢して順応して生きていくものだと思ってて。

 

そんなこんな(part2)で、喉が詰まって、視界がぼやけてしまうくらいには無理なので、安心感を求めて、腰を上げるのです。

 

結局、おさぼりん。

学生の特権ですね。

 

おねむりん