貸切ディスタンス
不要不急の外出や、家でできることは家でやる
外出先では必要最低限の行動を。
あと少ししたら、この生活歴1年を迎えるわけですが、他者との距離ができた分 認識ボケがついたり、見えていなかった しきりの役割に気づいた。
家にいられてハッピー!という反面
家のことをしない言い訳ができないのである。
実家暮らしやシェアハウス、同棲など
2人以上で暮らしている場合
新しい生活によって、家庭と仕事の境界が混ざりまくって、ボケが生まれた方もいるのではないか。
ここで、問題なのは「 切り替えの不便さ」。
さらに言うと、家から一歩も出ないなら 移動時間にできたはずのことができるようになる、すなわち やって当然、できて当然の世界が誕生している。
世界を代表して言いますが、外で仕事をしてくることと、家で家事を行うことは同じ物差しで測るものではなく、どちらも重労働である。
家で、通常の仕事と同じ時間拘束をされれば、その間 家のことは放置にならざるを得ない。
さくっとやれば終わるかもしれないが、正直そこまで甘くないと体感している。
プライベートと仕事・学業の仕切りは徐々に削られて、家族との距離はどんどん近くなり、家にいても何かしなくてはいけないという「プレッシャーで逃げ場がない」。
学校が休校になった時は特に、虐待の報告ができないなど本来見えないものがますます見えず、SOSに気づくことができない、また 家の手伝いで学習時間を確保できない ということも考えられるので、感染予防万々歳とも言い切れない子がいて、そこまで考慮しないといけないのが 教育の世界だったりするようだ。
場所の意義について、会社なんて学校なんてなくていいじゃんという合理的な考え方と、シェルターや しきりとしての役割が必要だという考えの2つに少なくとも別れなければならないと考える。
合理的な考えは好きだが、それはそれでリスクがあるのがこわいところである。
日本に警察がたくさんいるのは、根っからの良い子ちゃん気質と、集団行動が導いた排除主義でしょうか。
最近わたしは、この世に正解はない。というよりも、正解がたくさんある。というのが正しいのではないかと思い始めた。
そもそも、問題に正解がひとつしかないなんて誰も言ってないのに、勝手に問題に正解は1つセットだと勘違いしたバカが統一しようと考えるからダメなんだと思うし、たかが50〜80年間 生を受けた物が この世を、人間というものを、社会を、世界を理解しようとしてること自体がお察しだわ。
考えることは非常に重要だが、長い歴史の中で 最も理解しないといけないことは、他に主張を押し付けるな、ということだ。主張はもうその時点で、意見を言い張っているのだから、後押ししないで欲しいものだ。頭痛が痛い構文、あとで後悔する構文と同義だと、なぜわからないのか。
体調悪そうにすると嫌がられたり、寄り道せずにまっすぐ帰宅することが正義であったり、狭められた中で 抗うことなく従順に暮らす市民がどうか報われますように。
全面的なわかりやすいバイオレンスではなく、メンタルヘルスで 個人を追い込んでしまわないように、家が落ち着いて休める場でありますように。
おねむりん。