シャッフルジェンダー
生まれ持った機能としての、性別にとらわれずに、
固定概念にとらわれずに、
社会で堂々と自分らしく生きていこうという風潮。
人間らしくて、とても素敵だと思う。
ニュースを見ていると、なにかにして女性差別発言がなんのそのって話題、セクハラだなんのそのって、不倫がどうだ、なんかおかしい。
歴史によって、劣等感までセットになっているのか、立場が弱いのか、単なる被害者面なのか、もともと生まれ持ったものとは別で、勝手に性別のせいにして倫理観、論点をずらしているようなものもあるのは否めないと思う。
ユニセックスなデザインがあって良いし、誰が何を身につけ、どんな行動をしても良いはずなのに、なぜ勇気の要る世界なんだろうか。
たしかに、ジェンダー系の話は、何が地雷になるかわからないし、それぞれの知識や育ってきた環境が異なるせいで、何気ない一言で相手を傷つけ兼ねないので、非常に難しいし、個人的に女性の発言権の方が強いように感じてしまう。
単純な男女のセクシャルに当てはめないジェンダーも存在して、それぞれの生き方を理解して尊重して、白黒はっきりさせずに共生することが大切なのは分かる。
もう少しだらだらと書かせていただきたいのだか、ここまで読んで不愉快だと思った方は、読むのを辞めていただいて結構です。
この性について考えたときに、フェアにするために、全ての男女別を取っ払えというのは違うなあと思うわけで。
平等と公平は違う。
それぞれの能力や特性に応じて、配慮する公平こそが最も人間らしく尊重しないといけないことだと感じる。
女の敵は女、という言葉があるように、同じ性別、同じフィールドでも理解できないことはある。
女芸人や、おもしろポジションにいる女性が俗に言う女らしい態度、モテようとしたり、男の前で態度が変わったりしたら、これだから女は。なんて思うこともある。
混ぜてるだけ、混ざってるだけで、存在する概念をとっぱらうことはできるのか
どうしても女が出てるとか言われたり、女を捨てなければならないのか。
同じ指標で考えたくても、製品の性能評価みたいに性別というカテゴリを抜いて比較することは不可能で、「公平」に判断するためには、人間は個々に人には見えない背景をもってることを念頭に置かないと、まず話にならない気がする。
完全理解よりも、こういうこともあるんだなって配慮する気持ちが大事なんだろうなぁと。
差別だ!という発言を見た時に思うのは、声を上げている人はきっと平等を求めているのだろうということ。一方で、偏見を正そうとしているようにも感じる。偏見は偏った見方だからあって当然だが、道徳的におかしなことには 正々堂々声を上げてもいいはずだと思う。そりゃそうだ。しかし、ここで論点がズレがちだから、フェミニストはー、とか 老害はー、とか 訳のわからんことになるのだ。
わがままを声に出して、普通という概念に疑問をぶつけて、より暮らしやすくしてくれる人々が居なくなってしまったら、終わりだと思う。
わたしにも、もしかしたら あなたにも その勇気はないかもしれないけれど、自分の我慢と周りを比べて声を上げたいと思った時には、平等と公平と我慢とわがままについて 考えてみて欲しいなと思った。
ただ、それだけ。
本質は何かなんて 難しいからまだ分からない。
おねむりん