期待の状態方程式

結果の良し悪し、期待値に準ずる。

 

どれだけ期待したか、想像力の度合いによって

結果の良し悪しは感覚的な意味で左右されると思う。

 

高校生の時、理論化学で「気体の状態方程式」を学んだことを覚えているだろうか。

 

PV=nRT

P: 圧力[ Pa, atm ]

V:体積[ m3, L ]

n:物質量 [ mol ]

R:気体定数[ J / mol K ]

T:絶対温度[ K ]

※各単位は、扱うものによって変わるので、必ずしも表記したものだけではない。

 

この方程式は、理想気体に関して、気体定数以外のわかっている情報を代入することで求めたい1つの値を比例式で求められる便利な式です。

濃度C=n/V と変形して、P=CRTとしたらより計算しやすかったりしますね。

 

別に理論化学の話がしたい訳ではないのですが、これと同じように達成感や現実で起きたことについての感覚の違いは、かなり 自身が設定した期待の度合いによって左右されるのではないかと思うわけです。

 

ここでは正の感情、負の感情とした方が数値で比べるのにわかりやすそうなので、そうしたいと思います。

 

タイトルにある通り

「期待の状態方程式

I = - E t ^2 + C

 

y軸→I(impressionのI): 事後の印象

x軸→t(timeのt):費やした時間

E(expectationのE): 期待

C(conditionのC): 状態、具合

として作ってみました。

f:id:Onemurinrin:20210709113628j:image

 

いろんなパターンで考えてみましょう!

まずC(コンディション)=0として、I(印象)の変化を見てみます。

 

E<0 つまり、期待がマイナスの時、

時間をかけているほど、いい印象をもちます。

また、マイナスの時間は存在しませんが、

0よりも、時間をかけていないくらいやる気がないと、期待してないし、時間かけてないのに、意外といいじゃん???というなーんだこんなんでもいいんだー。という印象の良さにもつながると思います。

 

E>0 つまり、期待がプラスの時、

時間をかけているほど、悪い印象を持ちます。

期待するほど、その完成度とのギャップに気持ちが沈みます。これは経験則ですが…。

時間をかけていないくせに、期待していると、案の定うまくいくはずがないので、事後の印象は悪くなります。※異論は認めます。

 

さらに、いま 0とみなして考えた コンディションCが切片として加わるとどんな状態になるかというと、

 

C<0 つまり、体調不良、ストレス状態のときは、時間や期待が印象について良い条件でも、多少印象値は下がってしまう。

 

C>0 つまり、体調良好!ハッピー!なときは、

悪い条件であっても、印象値は 気持ち上という感じです。ざっくり。

 

どうでしょうか?たしかにー!と当てはまるなぁと思った方もいるでしょうし、なんやこいつ、なんか言ってんなぁ、いやいやこの方程式は当てはまらん!!という方もいるでしょう。

 

まさに、このタイトル「期待の状態方程式」というワードに惹かれて 期待してやってきた方はがっかりしたかもしれないし、なんか分からないけど見てみよっかなーと、来てくれた方は少しは楽しめたのではないでしょうか?

 

期待してるからこそのガッカリ

 

私の好きな

神聖かまってちゃんというバンドの「死にたい季節」という曲には

『諦めていると僕らは なぜか少し生きやすくなる』

という歌詞があります。

とても、ドキッとしてしまいます。。。

 

ハードルを下げて生きていこう。なんて言いたくないけど、

期待はかなり重要な 生活要素 であるのではないでしょうか。

 

期待せずに生きるなんて生きてる気しないけどね!

 

 

おねむりん倫理

シャッフルジェンダー

生まれ持った機能としての、性別にとらわれずに、

固定概念にとらわれずに、

社会で堂々と自分らしく生きていこうという風潮。

人間らしくて、とても素敵だと思う。

 

ニュースを見ていると、なにかにして女性差別発言がなんのそのって話題、セクハラだなんのそのって、不倫がどうだ、なんかおかしい。

歴史によって、劣等感までセットになっているのか、立場が弱いのか、単なる被害者面なのか、もともと生まれ持ったものとは別で、勝手に性別のせいにして倫理観、論点をずらしているようなものもあるのは否めないと思う。

 

ユニセックスなデザインがあって良いし、誰が何を身につけ、どんな行動をしても良いはずなのに、なぜ勇気の要る世界なんだろうか。

 

たしかに、ジェンダー系の話は、何が地雷になるかわからないし、それぞれの知識や育ってきた環境が異なるせいで、何気ない一言で相手を傷つけ兼ねないので、非常に難しいし、個人的に女性の発言権の方が強いように感じてしまう。

単純な男女のセクシャルに当てはめないジェンダーも存在して、それぞれの生き方を理解して尊重して、白黒はっきりさせずに共生することが大切なのは分かる。

 

もう少しだらだらと書かせていただきたいのだか、ここまで読んで不愉快だと思った方は、読むのを辞めていただいて結構です。

 

この性について考えたときに、フェアにするために、全ての男女別を取っ払えというのは違うなあと思うわけで。

平等と公平は違う。

 

それぞれの能力や特性に応じて、配慮する公平こそが最も人間らしく尊重しないといけないことだと感じる。

 

女の敵は女、という言葉があるように、同じ性別、同じフィールドでも理解できないことはある。

女芸人や、おもしろポジションにいる女性が俗に言う女らしい態度、モテようとしたり、男の前で態度が変わったりしたら、これだから女は。なんて思うこともある。

 

混ぜてるだけ、混ざってるだけで、存在する概念をとっぱらうことはできるのか

どうしても女が出てるとか言われたり、女を捨てなければならないのか。

 

同じ指標で考えたくても、製品の性能評価みたいに性別というカテゴリを抜いて比較することは不可能で、「公平」に判断するためには、人間は個々に人には見えない背景をもってることを念頭に置かないと、まず話にならない気がする。

完全理解よりも、こういうこともあるんだなって配慮する気持ちが大事なんだろうなぁと。

 

差別だ!という発言を見た時に思うのは、声を上げている人はきっと平等を求めているのだろうということ。一方で、偏見を正そうとしているようにも感じる。偏見は偏った見方だからあって当然だが、道徳的におかしなことには 正々堂々声を上げてもいいはずだと思う。そりゃそうだ。しかし、ここで論点がズレがちだから、フェミニストはー、とか 老害はー、とか 訳のわからんことになるのだ。

 

わがままを声に出して、普通という概念に疑問をぶつけて、より暮らしやすくしてくれる人々が居なくなってしまったら、終わりだと思う。

 

わたしにも、もしかしたら あなたにも その勇気はないかもしれないけれど、自分の我慢と周りを比べて声を上げたいと思った時には、平等と公平と我慢とわがままについて 考えてみて欲しいなと思った。

 

ただ、それだけ。

 

本質は何かなんて 難しいからまだ分からない。

 

 

おねむりん

好きの裏返し

いやよいやよも好きのうち。

会話のノリで きらいー!とか、こいつと一緒とかいやなんだけど!とか、そういう時に 高みの見物でもしてるみたいに、こういうこと言う人いますよね。

 

は?嫌いは嫌いだし、なんなの?って

当事者は思うのだろうなぁと想像できるけど、

そもそも好きの定義ってなんだろ?と。

その定義づけと、好きの対義語は何かを考えてみたいと思う。

 

結論から言うと、

好き=興味がある

好きの反対は、嫌いではなく 無関心

と、私は考えた。

 

好きだと思うということは、相手のことを認識していて、好きだと思える相手の性格、言動、外見などを理解しているということだと思う。

それを知っている、気がつくことができるのは、好き、すなわち 興味を抱いているからこそだと思う。

興味がなくても会話をすることはできるが、興味がなければまったく記憶にも残らないし、そもそも言葉が出てこない。反例は認める。

したがって、好き=興味があること。

 

好きか嫌いか、気にいるか 気に食わないか。

興味があるかないかを軸にすると、興味がないと言うことは無関心ということになる。

 

あの人のことどう思う?

→普通かな。

これだ。この「普通」というのは好きでも嫌いでもない、そもそも相手の情報を知らない、判断材料がない、そんなことに時間をかけるのがもったいない、それほどの人間じゃない、ちょっと言い過ぎたかもしれないけれど、好きかそうでないかを判断するためには情報を知っていて判断出来るほど気がないとできないのではないかと考える。

 

もちろん、よくわからないけれど、ある人・モノに惹かれることもあると思う。そうしたときに、好きかどうかはまだ判断できないけれど「気になる」と口にする人が多いのではないだろうか。惹かれているときに、「普通」とは、相当意地っ張りじゃないかぎり言わないと思う。

 

つまり、そういうこと。

好きの定義は、

相手を判断できるだけの情報があり、理解している、認識している状態。

嫌いもまた然り。

 

好きの反対はそもそも情報がない、得ようともしない。興味がない状態。

 

好き嫌いの対義語は、思いついた人天才だと思うなあ。

だって、わたしは興味あるない基準からしか考えられなかったのに、その先を行って定義してるんだよ。ほーん。

わたしにとって対義語の基準は 、有る⇔無い なんだよなあ。

もともと質量がなく、存在しないものに翻弄されるのって実に滑稽だけど、だからこそ素晴らしい文化だなあなんて思います。

 

ほいじゃ、こんなもんで!

 

 

おねむりん

 

タダより高いものは無い!

言うだけならタダなので、

好きなだけ 褒めたらいいと思う!

 

男女がどうって話はまた今度記事を上げようと思いますが、特に 女子には かわいいって思ったら言えばいいと思う!

 

他者評価によって、仮にお世辞だとしても

そうなのか!わたしは可愛いのか!と思うか

 

はたまた、ぜんぜん可愛くないやい!

どこが可愛く見えたんだろう?

もしかしてここかなー!新たな発見!

長所伸ばしてく?ってポジティブに捉えるきっかけになるかもしれないし、

 

はたまた、その言葉に見合うように外見内面両方とも見直してみようかなと思うかもしれない。

 

わたしは、そういう俗に言う嬉しい言葉はどんどん発したほうがいいと思う!

なんせタダだからね!

もちろん、男子にも かっこいいね!愛らしいね!素敵だね!見直したよ!とか、いいなと思ったことはどんどん言葉で表現した方がいいと思う!

 

自己評価と 他者評価には 主観が違う分、ギャップが存在して、なかなか受け入れられないかもしれないし、あいつは嘘つきだと恨みを買ってしまうこともあるかもしれない。けれども、俗に言うプラスな言葉は マイナスな言葉よりも良い効果を発揮してくれそうだと思っている。

どこかに 言葉によってパフォーマンスが変わる的な論文ないかな!きっと探せばありそうだし、某igoとか、紹介してそうだよね。

 

しかし、ここで問題なのは、いいなと思ったことは積極的に!という点。

「言うだけならタダなので」

今回の焦点はここ!

たしかに、タダでもらえるならもらえるだけ貰っとこう!やっとこう!となる価値観。

 

一方で、「タダより高いものはない」という言葉がある。タダでもらったら、お返ししないととか、見返りを求められてるわけじゃ無いけど、気を遣って逆に高くつく〜というような意味だった気がする。

 

言葉での「タダより高いものは無い」は、

あげる側の問題だと考える。

極端な話をします。

タダで投げられるからこそ、その無料で軽い言葉がグサッと 誰かの気持ちに刺さって命を落とせば、その言葉はタダではなく 命を落としただけの重さがあることを意味する。

タダだからこそ、安易に発信できる分、リスクが伴う。投げる側に悪意があろうが、なかろうが、そうしたリスクがつきまとうのが難しいところだ。

言葉の綾ですね。

 

好きなこと言いたい、

その前に一度 チェックを入れてから発信して

自分のことも 、知らない誰かのことも守れるようなそんな流れがほしい。

 

マイナスとプラスと基準がわずかに個体差があるのも少し厄介ではある。

とりあえず、一般的な方で考えてみて、相手の言動から探ってみよう!

 

結論:

とにかく、わたしはカワイイ!と言われたい。

好きなだけ言ってくれ!

カワイイと言ってくれたその言葉に見合うように努力します。

でも、タダだからと言って、身体的なことでからかってくるのは御免なので、悪しからず!

わたしは容赦しません。

 

 

おねむりん。

音で記憶する

走馬灯のように思い出が駆けめぐるのは、死に際だけなのかなと思うけど、実はたくさんの思い出たちは五感で簡単に思い出すことができる。

 

におい。

このにおい、懐かしい。一度嗅いだことがある!

そのときはたしか…

 

味。

この味と似たものを知ってる。

 

感触。

この触り心地、知ってる。

 

視覚。

見たことがある。

この場所、あの顔、その道知ってる。

 

そして、音。

この音がした後は嫌なことがあった。

忘れていたことが思い出される。

 

我々は、数字やことばを使って表現することができるが、本能的な危機意識は 五感によって守られている気がする。

 

特に、ここでは 音に注目したい。

音楽好きな人は、音楽を聴きながら生活をすることがあるだろう。その時のことを、そのときに聞いていた音楽によって、記憶していることがある。

 

わたしの家庭は、小さい頃 2年おきに 大晦日の夜に出発して2泊3日でスキー旅行に出かけていた。

そのときにいつも、父が車で「ロマンスの神様」を流すのだ。広瀬香美のことは、全く知らなかったが、この歌といえば、雪!スキー!、スキー!雪!といえば ロマンスの神様

ロマンスの神様を聴くと、今でも 車内からみた雪山の景色が思い出される。

 

中学生のときに、関東に住むわたしの家族は 愛媛に住んでいる祖父母を連れて、愛媛のとんがりの先、八幡浜佐田岬までドライブに行った。入り組んだ複雑な海岸線、リアス海岸を目の前に、2世代の家族が一緒にいる、景色も良いし、こうやって ずっと一緒にいられるわけじゃない。もう2度とこの瞬間は訪れない、そう思うとこの景色を絶対に忘れてはいけないという使命感がわたしの中に宿った。そこで、当時の私は 音楽で記憶しようと思って、「海岸線をレースのように、真っ赤なオープンカーが走る…」で始まる、SKE48アイシテラブルの音源を耳に当てて、団らんそっちのけで 景色を目に焼きつけた。

不真面目な家族交流のように感じるかもしれないが、わたしはこれをしておいて良かったと今でも後悔していない。

その後 高校3年生の時に、また遊びに行ったのだが、翌年 祖父は亡くなった。

記憶に焼きつけたシーンは 死ぬ前の前の前の結構前の記憶だが、それでも 辛うじて元気なうちに一緒に出かけた思い出が、その音楽を火種にして次々と思い出しやすくなっている。

ぜんぜん感動的な音楽ではないが。

無意識に思い出されてしまう。

 

さまざまな思い出がよみがえる。

蘇る、甦る、暦が帰るように!

 

徹夜したときに聴いていた音楽

徹夜明けのバスで聴いていた音楽

徹夜していないときに聴いていた音楽

 

ただ、この「音で記憶する」ことには弊害がある。

思い出は全てがいいものとは限らない。

 

わたしは律儀なところがあり、頑固は頑固なのだが、相手の趣味に歩み寄ろうと 相手の好きな音楽を聴いてみて 見事ハマる時がある。そうしたときに、さまざまな思いを抱きながら 、その音楽を聴いていたもんなので、終わったことなのに思い出してしまって、もやもやしてしまうのだ。

この曲好きだったな。好きだったと言うよりも、意識して聴いていたのかもな。たまに聴きたくなる声だけど、これを聴くと思い出しちゃうからな。

好きなはずなのに、この音楽自体が嫌いになりそうで、というか嫌いになってしまって、音楽に罪はないのに、その音楽を聴くと自分自身が苦しくなってしまう。まあ、それくらいには感情がのってしまっていたんだろうなと。

この景色忘れたくない!と思って、ライブハウスでシーンを目に焼き付けつつ、想いを全力で歌に乗せてしまったせいで、思い出を美化してしまったところは否めない。音源を聴いて、客観視すると大したことないのになぁと思うけど、その時は確かに 気持ちと共にわたしがそこに存在した。

 

音で記憶すると、純粋に音楽自体を楽しめなくなってしまう弊害が隣り合わせなのである。

無意識なのが厄介なのだが、この先も音に想いを乗せてしまって、イヤフォンが苦痛になってしまったら嫌だなぁと思う帰り道。

 

BLUE ENCOUNTの「さよなら」初めて聴いてるけど、これも思い出になりそうです。

 

ブルエンのベストアルバム最高だわ。

おねむりん。

制限定理

死に際をスタートラインに

というトピックと 似たような系統なのだが。

この世のものは

制限された時に野心が燃える生き物なのかなと。

 

反発力が最大限に発揮されるように条件を指定したいなら、道を狭めるのがいいと思うわけだ。

 

囲まれてしまうと、たくさんあったものが数えるほどにしかない。欲求を満たしてくれないなら、新しいものが必要になる。他のものが欲しくなる。

 

出かけるな!と言われたら出かけたくなるし、

黙れ!と言われれば、文句を言いたくなる。

 

これをしなさいという指示は 狭められた選択の一つである。

いやだという意思は 選択を勝手に絞られたことへの反発力のひとつである。

 

母数が少なければ、達成しやすくなる。

その環境で野心が発揮されれば、囲いを壊して、未知に向かっていくのではないかと。

 

制限されると反発したくなるということは、

良い方にシフトするなら、囲んで囲んで考えられる全てを潰していくことで、さらに向こうを目指せるとも言えると思う。

 

言い訳し放題、でも囲いが外れた時、あなたはちゃんと世界に踏み出せるんですか?

囲いがあるうちに、そこで基礎やエネルギーを貯蓄して、自ら柵を蹴散らしていくくらいの力が理想だなと思う。

 

疫病を言い訳にできるうちにしっかり見極めた方が良さそうだなと思う。

道はいくらでも考えられる。

条件は整ってる。

 

今日は短め。

おねむりん。

貸切ディスタンス

不要不急の外出や、家でできることは家でやる

外出先では必要最低限の行動を。

 

あと少ししたら、この生活歴1年を迎えるわけですが、他者との距離ができた分 認識ボケがついたり、見えていなかった しきりの役割に気づいた。

 

家にいられてハッピー!という反面

家のことをしない言い訳ができないのである。

 

実家暮らしやシェアハウス、同棲など

2人以上で暮らしている場合

新しい生活によって、家庭と仕事の境界が混ざりまくって、ボケが生まれた方もいるのではないか。

ここで、問題なのは「 切り替えの不便さ」。

 

さらに言うと、家から一歩も出ないなら 移動時間にできたはずのことができるようになる、すなわち やって当然、できて当然の世界が誕生している。

世界を代表して言いますが、外で仕事をしてくることと、家で家事を行うことは同じ物差しで測るものではなく、どちらも重労働である。

家で、通常の仕事と同じ時間拘束をされれば、その間 家のことは放置にならざるを得ない。

さくっとやれば終わるかもしれないが、正直そこまで甘くないと体感している。

 

プライベートと仕事・学業の仕切りは徐々に削られて、家族との距離はどんどん近くなり、家にいても何かしなくてはいけないという「プレッシャーで逃げ場がない」。

 

学校が休校になった時は特に、虐待の報告ができないなど本来見えないものがますます見えず、SOSに気づくことができない、また 家の手伝いで学習時間を確保できない ということも考えられるので、感染予防万々歳とも言い切れない子がいて、そこまで考慮しないといけないのが 教育の世界だったりするようだ。

 

場所の意義について、会社なんて学校なんてなくていいじゃんという合理的な考え方と、シェルターや しきりとしての役割が必要だという考えの2つに少なくとも別れなければならないと考える。

 

合理的な考えは好きだが、それはそれでリスクがあるのがこわいところである。

 

日本に警察がたくさんいるのは、根っからの良い子ちゃん気質と、集団行動が導いた排除主義でしょうか。

 

最近わたしは、この世に正解はない。というよりも、正解がたくさんある。というのが正しいのではないかと思い始めた。

そもそも、問題に正解がひとつしかないなんて誰も言ってないのに、勝手に問題に正解は1つセットだと勘違いしたバカが統一しようと考えるからダメなんだと思うし、たかが50〜80年間 生を受けた物が この世を、人間というものを、社会を、世界を理解しようとしてること自体がお察しだわ。

 

考えることは非常に重要だが、長い歴史の中で 最も理解しないといけないことは、他に主張を押し付けるな、ということだ。主張はもうその時点で、意見を言い張っているのだから、後押ししないで欲しいものだ。頭痛が痛い構文、あとで後悔する構文と同義だと、なぜわからないのか。

 

体調悪そうにすると嫌がられたり、寄り道せずにまっすぐ帰宅することが正義であったり、狭められた中で 抗うことなく従順に暮らす市民がどうか報われますように。

 

全面的なわかりやすいバイオレンスではなく、メンタルヘルスで 個人を追い込んでしまわないように、家が落ち着いて休める場でありますように。

 

 

おねむりん。