評価と開発のはなし

このタイトル作ったのは、

2年以上前なんですけどね、研究していると発表する際に「研究テーマ」を提出しないといけないんですよね。これと同じ、タイトルなんですけど。

 

その時に、当時(2年前)の私が着目したのが

・評価 

・開発 

このワードなんです。

 

単純なイメージ

評価: 分析してまとめて傾向を見出す、可能性を見つける

開発:既存のデータを活かして、新しいものを作り出す

 

こんなイメージが私の中ではあります。

厳密には、開発に至るまでには 

作って→評価して→改良して…を繰り返して

やっと 開発というワードを使っていい みたいな部分があると思うのです。

また、評価と書いていても、開発したものも結局 評価するためのツールなので、評価になるだろうし、と離れられない存在なんだろうなぁとも思うんですけどね。

 

まあまあ、そこの細かいところは置いておいて

なぜ、このタイトルか。

 

今は少し考えが変わったのですが、

当時の私は 開発>>>評価 というふうに

評価のことを馬鹿にしていた節があったんですよね。

 

なぜなら、自分の研究テーマが当初「○○の開発」という名前だったから。

評価?

あー、あるもの使って、色々調べただけね。

その弱点を克服するような新しいシステムや装置、素材の開発はしないんだ。ふーん。

評価してるだけね。誰でもできるじゃん。

 

というふうに。

 

生意気なクソガキですねえ?

 

若干のその気持ちは未だにありますが、

それ自体は別に悪いことじゃないのに、

「研究」の立場にいると

「新規性」、「オリジナリティ」というワードがチラつくんですよね。というか、そういうものを作れと言われている。

そう言った意味では、作っちゃえば勝ち感ありますよね。開発って言っちゃえば、ありみたいな。

 

でも、本当にこれ意味あるの?っていうただ作りましたっていうのは 開発とは呼びたくない部分があって。

わたしの学生時代の研究には「もともとあるものをうまく利用するために」というコンセプトがあって、当初は「開発」という名前でしたが、本当は評価と開発どちらも一応やってたんですよね。

 

開発に憧れて、研究室に入って、担当テーマはもとからあるものを活かそう、ん???新しいもの作りたいのだが…ちーん。みたいな。

隣の芝はいつだって青いし、いつだって自分が一番かわいいので、新しいものを作り出すタイプの研究をしている方には憧れが嫉妬に変わり、悲劇のヒロイン症候群。これがやりたいことなのか、いや違う、いや、いや、と。、わたしはかわいそう。なんて。

 

ただ、人間というのは情が移る生き物なので、次第に うちのテーマが1番現実的で、これからの社会に合っているのでは?という視点も生まれるわけで。

 

開発職につきたいと思い、大学院まで進学した私は結局、開発職のある企業ではなく技術職を選び、新しいものへの興味は持ち続けながら、今あるものをどう活かすのか、どういったニーズに合わせて組み合わせるのか、という部分で 活躍したい思いがある。日本語 変だな、おい。

 

今の私が何を言いたいのかというと、

新しいものを作り出すことは素晴らしい。

けれど、評価を重ねる基礎を馬鹿にしてはいけない。

 

そして、ちょっとばかし飛躍するけど

意味を求めるのも時として、タブー。

わたしたちの生活に直接結びつかなくてもロマンのある基礎研究、土台作りというものはある。

 

評価も開発も両方大事なんです、バランスなんです

 

適材適所ってのもありますけどね。

超爆発的アイデアマンと、超論理的冷静分析マン

補い合えば最強ですよね。

 

わたしには、この狭い部屋の中で

勝手に世の中に平和を求める偽善思考が根強く蔓延っておりますので、どうか攻撃したり馬鹿にする前に想像する力を持て、と思ってしまうんですよね。

 

突発的な苛立ちに理屈は通用しにくいのに。

 

馬鹿にするとか、攻撃については常々思う部分があるので、それもまた 書き散らしたいですね。

 

つまり、

いいものを作り出すには

評価は必要不可欠。

 

 

うっかり本名を書きそうになった

おねむりん倫理

 

月が綺麗

かの有名な夏目漱石は「I love you」を
「月が綺麗ですね」と訳したそうだ。
有名な話だが、それを知っている人は
本当に月が綺麗でも、
恋愛関係になる可能性のある人と
「月」と「綺麗」の話題を話したい時に変な気持ちになるのではないかと思うのだ。
そのドキドキも、いいかもしれないけれど。


月が綺麗ですねのシチュエーションを考えてみる。


1.隣同士、夜空を見上げていて…


「月が綺麗ですね」
『そうですね』
同じ空間で、同じ風景を見ている
隣にいながら、互いを見つめ合うのではなく
遠くにある 共通認識の「月」を眺める
一つのものについて、
二人で「月」が「綺麗」ということについて邪念なしに話している。


・遠くにある対象に対する共通の意識
→遠い=将来と例えることもできるだろう
・生々しい言葉ではなく純粋に、二人以外のものについて楽しめる関係


これが、「I love you」の正体なのか。


2.一緒にいないけど 同じ空をみている


電話でも、メッセージでも構わない。
同じ時間に 会話をしている状況で、
ふと、夜空に目を向ける。
今夜は月が綺麗だなぁ。
君の場所からも同じように見えるのかな。


「月が綺麗ですね」
『そうですね』
離れていても、
この月を君も見ていたら良いなぁ、
同じものを眺めていたい、
二人の距離が離れていて
同じ世界に存在していることの証明。
誰にでも見えるものを、
君と共有したい。君に伝えたいんだ。
月が綺麗だと伝え、本当だねと、
相手も 認識した時、
初めて、この月は 全人類共通の月ではなく
二人の世界の「月」になる。


すき=月
もっともっと=綺麗


love >>>>>like


っていう考えも面白いと思う。


好きが愛に変わるところは、どこか。


っていうか、愛とか恋とか
そういうのなしで惹かれ合いたい。


おねむりん

 

 

金の切れ目は円の切れ目

『金の切れ目が縁の切れ目』

 

日本はお金の単位が円なので

お金なし=円なし

円→縁って 音で繋げてて上手いなって

思ったんですけど、

別にそういうわけでもないみたいね。

 

本来の意味は、

金銭で成り立っている関係は

これ以上 利益が見込めないってことになったら

付き合いが終わるってことだそうです。

 

金銭で成り立っている関係じゃなくても、

人が行動する時、もっと正確に言うと、

人が人と会う時には金銭が要るので、

金の切れ目が縁の切れ目 だと思うわけなんですね。

 

世の中お金なんです。

もちろん、心がないと。とか愛とか。

うんとか、すんとか、言う人いますでしょうけど、

実際のところ、お金がないと そもそも

そんな余裕めいたこと言えないわけなのです。

お金という概念が無いとか、

インフレだったら、話は別かもですが。

 

人と出会う方法は、今なら 間接的にできます。

今やってる ブログだって、

音声配信だって、イラストや、写真とか

そういうSNS は 人と人とを繋げてくれます。

※まあ、ネット代が払えればの話ですが。

(やっぱり お金なきゃできない大前提…)

 

人と会うということは

出かける(交通費)

食べる(外食費)

手土産持ってく(接待費)

身なりを整える(美容費)(衣装費) などなど

 

お金がかかるんですよね。

 

ここで言う「縁」は人との交流に限定してるので

お金がない= 会いに行けない

=会っても何もできない みたいな。

ギブアンドテイクで、

テイクされるだけじゃ、人って

引け目感じて、一緒に入れなくなる

ギブできない、ギブできる状況じゃない

会えない、疎遠、

(実質)無料で交流できるネットでしか

生存確認できない、

人と会わないから、喋り方忘れる

社会不適合者みたいな

いまは、これを頑張りたいからって

おかねを犠牲にしても、

やっぱり ないと、会えないし、

捻出してでも無理しないとって、変なの。

 

お金持ちの人って、自信家な人多そうなイメージ

お金があると、なんでもできるって

自信がつくんですかね。

 

期間限定のバイトしかしてなくて、

時間もなくて、お金持ってないので、

できる限り 倹約して過ごしてるし、

金欠なんだ💦って、事実でもさ。

お金の話をするのって タブー感あるじゃん。

でも、実際、そういうわけなので

人付き合いというのは、現代においては

時間よりも お金があるかどうか、、、

というところが、あると思うんです。

 

金の切れ目は縁の切れ目。

一理あるよね。

けど、それで疎遠になるなら、

それまでの関係なのかなって。

 

お金ができるまでいくらでも待つよって

出してあげるよ!じゃなくて、

お金ができたら、時間ができたら、って

待ってくれる、尊重してくれる

友だちを大切にしたい

甘えた思考のおねむりん倫理なのでした。

 

おねむりん

 

音が聞こえなくなったら

ファイトソング というドラマが、

来週最終回なんですけど、

とっても、一言では言い表せない

気に入っているドラマなのです。

 

おすすめ!とか、是非見てほしい!とかは

思ってないので、おすすめはしません。

単に、好きというか、気持ちがゆれた物語です。

 

ドラマの中で、主人公の女の子は

事故の後遺症で 耳が聞こえなくなる可能性が出てきます。手術が成功しても、聞こえなくなるかもしれない。手術日までに耳を通じたコミュニケーションや、「音」が聞こえている生活の思い出を残そうと ある取り組みをします。それが切ないんですけどね。あっ、言いませんよ。

 

それで、私の生活に目を向けて見て、

音が聞こえなくなったら… って今考えてました。

 

音が聞こえなくなったら、

1番に思い浮かんだのは

音楽が楽しめなくなってしまう…。

お耳のコミュニケーションですからね。

耳が聞こえなくても、皮膚を通じて

振動で リズムを楽しめるものがあればいいのに

あるのかな?あったら、うれしいよね。

 

2番目に思い浮かんだのは

危険に気づけない。

イヤフォンで耳を塞いでいると、

何かに気づくのが遅れるように、

耳からの情報で 危険を感じ取っているので、

実験なんてできないし、

聞こえなくなった途端、今まで積んできた学歴がパーになるようなものです。実験屋さんはできない。

料理だって、お湯を沸かすのはケトルじゃなきゃ怖いだろうよね。

ガサガサって、何かが潜んでても気づかない。

距離感だって分からないだろうな。

 

私は、不調な時、そうじゃなくても

音に敏感で、話し声とか気に食わない音が

近くで鳴っていたり、

その状況に身を置かないといけない時、

平然を保った顔しながら

内心イライラが止まらなくて、

ぜんぜん、集中できないみたいなことがあるんです。

 

そんなときは、イヤフォンできる状況なら

音で音をカモフラージュして、

ないことにしてて、

この音無くなれ、無くなれって、

思ってるんですけど、

いざ、無くなることを想像すると、

損が大きいです。

 

音のせいで、というか、

音に敏感、神経質なせいで

音が嫌いになることもあるけど、

音のおかげで生かされてた上での悩み。

 

音がなきゃ絶対にダメってことじゃないです。

この世の中に絶対なんて存在しないですから。

 

だけど、少なくとも私は

音に依存しているから、

急に無くなってしまったら 絶望は深いだろうな

ということです。

 

無くなってしまったら、

 

それは 有るからこその発想。

実際に、その状況になってみないと

本当のところは わからない。けれど、

無いからこそ、新しいものが生まれる

新しい有るが できるかもって思えば、

この世界を「無い」が

覆い尽くすことは 無いのでしょうね。と

 

有るとか、無いとか、

優勝とか、最下位とか、

輪廻転生、万物流転ってことですね。

 

なんか、もやもやする 終わり方っ。

 

 

おねむりん

進撃の断捨離

お題「断捨離」

 

今回は、お題ブログをやってみようと思います。

 

テーマは「断捨離」

 

最近MOSHIMOというバンドにハマっていて、

その印象で「断捨離night」という曲が

パッと思い浮かびます。

 

人からもらったものとか、

人との思い出が吹き込まれたものとか、

捨てることで、心機一転 次に向かうことができますよね。

 

私は結構、ものを捨てられないタイプで、

部屋もいつも散らかってて、

ショップ袋とかも取って置いちゃうタイプなんですよね。

 

でも、恋愛に関しては、

そもそも思い出になるような物品を残さない・購入しないか

お揃いのものを購入していても

別れたら、それを思い出すのが癪なので

即捨ててしまいます。

写真も連絡先も、実物でない物も全て抹消。

 

そんな属性だったのですが、

この前別れた彼との思い出の品は当然のように無いので

断捨離のしようがないのですが、

連絡先はとってあるし、

トーク履歴は端末の設定問題で間違えて全部消えてしまいましたが、

その時々で、スクショ撮ってたので、それは残してあります。

 

良くも悪くもない思い出として、

確かにあの瞬間恋をしていたんだという

証明のためにとっておくのもありかなと思い

消さずに置いてあるのもあります。

 

連絡先を消さない理由は、

なんでしょうね。

相手に明らかに彼女ができたってわかるまで

嫌いな気持ちも含めて監視していたいんですかね。

毎日チェックしているわけではありませんが、

その人の情報が残っていれば、

思い出した時に、

嫌な思い出、だけでなく

「あの時、嫌いに思えてよかったな」と

合理的要素を残しておきたいだけなのかもしれないですね。

 

たまにいますよね。

人を見下すことで自分の価値を上げなきゃ

生きていけないような人。

特大ブーメラン。

私もおそらくそのタイプなのかもしれません。

 

大切に大切にしていても、

ある時急に捨てたくなって、

大量破棄なんてこともあるので、

一概に捨てられないタイプとも言い切れないのが

実際のところです。

 

さて、タイトルの進撃の断捨離ですが、

進撃の巨人の主題曲に

「紅蓮の弓矢」というものがありまして、

その歌詞に、

捨てる覚悟がなきゃ何も得られないよ、みたいなフレーズがあるんですよ。

 

物、データだけでなく、

気持ちにも取捨選択が必要だという。

ほんとに、その通りだなと思って。

欲しいものを手に入れたければ、

代償が必要だってことですもんね。

 

断捨離できてこそ

より、その選択に真っ直ぐ向き合うことができるという意味で

大事な文化、大事な考え方だなと思います。

 

断る

捨てる

離す

 

って、2字熟語で同じ意味を持つ言葉なら聞いたことありますけど、

3字で伝えてくること、圧倒的破壊力。

説得力ありすぎだろ。

 

そんなに、切りたいのかと。

それだけ、切りたいんだと。

かなり伝わってきますよね。

 

覚悟を持って、前に進むために

断捨離 必要ですね。

 

断捨離も時に、やさしさですね。

 

 

おねむりん。

ルーズリーフと背表紙

終わりのない自由な用紙

ルーズなリーフこと、ルーズリーフ

 

授業セットといえば、

教科書・ノート・ドリル

ノートなんですよね。

 

わたしがルーズリーフという言葉を知ったのは

ヤンキー君とメガネちゃん」というドラマの主題歌が ヒルクライムさんの『ルーズリーフ』という曲だったからですね。

 

バインダーに挟めば、ノートっぽいけど

一枚ずつ、いろんなメモに使えるっていう自由度がルーズリーフの良さなんですよね。

 

中学生のとき、わたしは文房具オタクだったので、

・値段

・使いやすさ

・デザイン などなどいろんな基準でいろんな文房具を勝手に評価してました。

その中でも、文房具というには違う気がしますが、

ルーズリーフがめちゃめちゃ好きだったんですよね

 

わたしは、かさばるけど、バインダーも好きだったので、ルーズリーフ単体で、ノートの役割果たしちゃうよ!という便利ポイントガン無視で使っていたわけですが。

 

バカと天才が紙一重であるように

長所と短所は 表裏一体なんですよね。

 

ルーズリーフの良さは圧倒的自由度だと思います。

いますぐにでも、始められるハードルの低さ。

だからこそ、バインダーやファイルにまとめられていない状態だと、見失っちゃうんですね。

 

ノートにあって、ルーズリーフにないもの。

それは、背表紙

 

表紙なら作れるんですよ、

一枚むだにすればいいだけなので。

 

でも、背表紙は作れないんですよね。

思い出として立てかけたときに、

開く前にぱっと思い出せる、栞のような、

栞じゃないけど。

 

ノートは、最初の1ページかなりどきどきが必要ですね。

そして終わりが必ずくる。

 

表紙よりも、背表紙

終わりを迎える

本当の意味で、迎え入れる姿勢

さよならを告げる

区切りをつける

 

自由度が高く、

はじめもおわりも曖昧、

あってないようなもの。

 

初めのハードルが高くて、

終わりがはっきりしている。

思い出もしっかりしている。

 

さてはて。

どっちが幸せなんだろうね

 

おねむりん

成長ちゆう

突然の体調不良

じわじわと、あれ?なんか痛いかも?

病気かも?

 

それは、

年によるものだったり、

環境によるものだったり、

ウイルス的なものだったり。

 

小学生の時、学校から家までの距離が遠くて

ラソンもまあ得意な方で、

運動は好きではなかったけど、

足には自信はあった。

ある時、踵の方が痛くなって、

歩くのも嫌だと思うほどに。

足が痛いから病院にかかりたいと、親にお願いして

レントゲンも撮ってもらったけど、

小学生ということもあり、

「成長痛」でしょうね。と言われた。

 

「成長痛かあ」

 

足のサイズが大きくなったり、声の高さが変わったり、

小さいなりに体の変化が忙しい時期に使われる言葉。

 

成長痛って、ああ、成長してるんだ!と

肯定されているような気がして嬉しかった。

けれど、この時期だからこそ、

よく分からないから、「成長痛」で片付けられてしまったのか

悲しい気持ちにもなった。

 

成長中ってことかな。

 

案外、病は気から、みたいなところがあって

知らないうちに痛みは引いていたりする。

 

大人になってみて、どうだろうか。

 

疲れやすい?考えすぎ?

‘この歳’になると、「成長痛」なんて言われることはないし

自分でも、そうは思わないだろう。

 

これは痛みなのか、

それとも、何かの途中なのか、

色々と巡らせている間に治癒してしまう。

 

治癒した気になって、

いつまでも、私たちは痛みから逃れることはできないのだろうか。

 

成長できる環境、

成長できるチャンス、

成長って疑いやすい。

疑われるべきものなのかもしれない。

 

あなたのその「痛み」は

本当に成長ですか。

 

 

おねむりん。